ロココ調は女子の憧れ

 

 

1回生の頃、宗教学と哲学の授業は必須で、二回生になると必須ではなくなったもののなんとなく四回生になってもマス埋めでずっと取り続けた。理由は特にない。けれど当時の私にとって少しは興味惹かれる内容であったのは違いないと思う
名前が付けられないものに名前を付けたり何百年前から我々人間が人間について研究していたことに思いを巡らすと不思議とトリップするような感覚(表現しにくい)に陥るからそれが快感だった。

先日東京出張で六本木を通った時、塩田千春さん個展<魂がふるえる>が丁度期間中であることに気が付いた。しかし時間の持ち合わせが無かったので六本木ヒルズまで行き外から眺めた。ひらがなで<ふるえる>なのが好きだ。個展など見てむつかしい感想など言えない。ただ、こころふるわすため 人の創作物を見る。感受性は豊である方だと思う。自然の中で育った私はそういうものに囲まれて生きてきた。時々名前にならない気持ちに苦しくなることが多い。中二病かも知れない。こういうきもちを誰かと無理にでも共有しようとは一切思わないけれど、それそれ!!!となるとついつい最高に嬉しい。

たましいはどこにあるのか 
よく考える。私の肉体には生きる為の臓器がパンパンで、たましいなんて入る場所はない。脳みそだって少な目であったとしても、横ふり、縦ふりしても音は鳴らないくらいには十分だ。こころだっておんなじで、形のない不思議なものだ。そもそも二つ共、あるけれどないものだから場所だって存在しないのかもしれない。
でも考える事をやめられないので考える。行き着く先は手だ。こころの動きを遂行するのは手であると思う。叩くこと傷つけることも簡単だけど触れること、なでること、手当てすること、すこし触れる動作ひとつとったって愛しむ動き、きもちは相手の心が開きかけていたり開いていたら必ず伝わる。誰かを思って行う手の動きは心そのものであると、常に感じる。
手はこころ。触れられないなら声言葉。
人間は生きていれば必ず誰かを傷つけるけど、優しくもできる生き物のはずだから、私は誰かを意図的に傷つけることはしたくないけど本当に本当に奥歯ガタガタいわして石の下にでも隠したろかワレェ

疲れてるのね…

いけない。ハンドクリーム。